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大稲埕と新文化運動

日本による台湾統治開始初期、大稲埕の茶葉貿易は依然として隆盛であった。

大稲埕は伝統的な茶葉交易以外に、漢方薬、繊維を初め各種物産も扱うようになり、縦貫線が全線開通したことで、一層の経済発展を見た。

日本統治時代中期以後、大稲埕は、日本人により建設された城内(現在の中正区、旧称は城中区))にその地位を取って代わられるようになった。この状況下、大稲埕と城內は、前者を経済の中心、後者を政治の中心と称されていたが、これにより開発に取り残された大稲埕は台湾元来の街並みと生活様式を残した地区となった。

1920年11月1日、台湾総督府は台湾地方官制及び行政区域の改制を実施し、台北市を設置し台北州に帰属させた。1922年の町名改正により、大稲埕は大橋町、港町、永楽町、太平町、日新町、下奎府町、建成町、上奎府町となった。行政名称としての大稲埕は廃止されたが、生活の中では尚も大稲埕の名称は使用され続けた。

新文化運動

 

当時は第一次世界大戦が終わり、世界中で新思潮運動が叫ばれた時代であり、日本でも大正デモクラシーが、中国では五四運動などが発生した。台湾の知識人は台湾総督府統治下、これらの新思想の潮流に衝撃を受け、台湾でも同様に「新文化運動」が試された。その舞台となったのが、富裕層が多く住む大稲埕であった。

当時設置された文化活動拠点としては「淡水戯館」、「港町文化講座」、「永楽座」などを上げることができる。特に永楽座は現在の私立天主教静修女子中学の大講堂に位置し、当時の台湾を代表する劇場として、伝統戯曲以外に、現代口語劇なども上演されたほか、社会改革運動を提唱した台湾文化協会の成立大会なども行なわれた。

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